うたたねモード

セミリタイア?っぽく生きてみる。

【読書】『茶─利休と今をつなぐ』を読みました

わたしがお茶と出会ったのは一昨年の冬のこと。

それから月に一度のお茶のお稽古が始まり、春、夏、秋と移り変わる季節のなかで、お点前の手ほどきを受けてきました。

客作法を学び、薄茶点前を学びつつあるとき、無心に打ち込み、また自ずと湧き上がる喜びを感じる一方で、「そもそも、お茶ってなんなのだろう」「その目的は?」「その意義は?」といったような漠然とした疑問がよぎっていました。

なにか、お茶概論みたいなものはないだろうか、それも比較的あたらしいもので・・・と Amazon で探していたときに見つけたのがこの一冊、『茶─利休と今をつなぐ』でした。

 

著者は千宗屋さん。

千利休からつながる茶家・三千家のひとつ、武者小路千家の若宗匠で、新進気鋭の茶人です。

茶道の入門書や作法書はあまたあれど、「茶の湯」について茶人側の立場から主観的に語られた本がいまだ存在しなかった。

そこで茶の湯に関心のある人に、とりあえず茶の湯の全体像を示すものとして、この本を作られたとのことです。

 

茶の湯について、茶の湯の歴史、茶家に生まれて、利休とは、茶席のこと、茶道具のこと、茶室のこと、茶事のこと、などが章立てで語られています。

 

読み始めから思ったのは、とても現代的なことば(外来語含む)を用いた解説が、圧倒的にわかりやすい、という印象でした。

 

たとえば、最初の方のページをめくっただけでも、ステレオタイプ、マニフェスト、シフト、クライアント、マスマーケット、ミニマリズム、キャッチフレーズ、などと、社会学かなにかのテキストのよう。

また、です、ます、と口語体で書かれており、大学の講義やカルチャーセミナーを聴いているかのような語り口でもあります。

そればかりではなく、難しい語彙が出てきたとしてもまったく堅苦しさを感じさせない筆致に、すばらしい才能と知性のきらめきを目にしたような気がしました。

武者小路千家の後嗣であり、大学でも教鞭をとられておられるお方であれば、それももっともなこと。いち庶民のわたしなぞがなにかを評するなんておこがましい限りです。

それはおいといて。

 

まず目からうろこが落ちたのは、

果たして茶の湯は宗教か、芸能か、それとも道徳なのでしょうか。(中略)私自身が比喩として一番しっくり来るのは、現代美術のあり方に即して説明する方法です。即ち茶の湯は「絵画」や「彫刻」では括れない作品の総合、つまり「インスタレーション」であり、ものではなく動きがある作品となる「パフォーミングアート」でもあると。(p.19)

の一節でした。

 

宗屋さんはこの説明をあくまで「補助線」と呼んでいますが、茶の湯のことをなにも知らないわたしは、「インスタレーション」「パフォーミングアート」の一語で、まったくもって腹に落ちたのでした。

これはあくまで一般人に説明する時の「つかみ」なのでしょうが、茶の湯の概念をざっくり捉えるうえで、とても的を射た一つの回答だと思いました。

日本人よりも、もしかしたら外国人の方が理解しやすいたとえかもしれません。

まぁそれは一側面であって、宗屋さんは「茶の湯は茶の湯である」としていますが。

 

また、

茶の湯の究極的な目標は、"直心(じきしん)の交わり"つまり心と心の交わりを、茶の湯の方法論によって実現することです。(p.21)

と述べています。

 

茶の湯の神髄は、自己と他者とのコミュニケーションにある。

一服の茶を通じ、心を交換する、時間と空間を共有する、そして、同期する。

結局人間は、他者との関わりのなかで生きているのだ、生きるのだ、ということを改めて思い起こさせてくれます。

その方便として、茶の湯がある、ということです。

 

ともかくも本書は、茶の湯について、さらりと、核心的に要所を教えてくれる本でした。

あとがきによれば、本書は宗屋さんが語り下ろしたものを起こして、校正再構築したものだとか。どうりで、ていねいな語り口でわかりやすく心地よい文体となっています。

初学者、入門者にとって、よいみちびきとなる良書だと思いました。

 

わたくしごとですが、お稽古を始めてから約一年。

夏の暑さを契機に体調を崩して、ついにドロップアウト(ドクターストップ)となりました。

三千家のうちのとある流派で習っていましたが、入門の許状すらいただくまでに至らず、ただただ無念につきます。

本書のなかで宗屋さんは、まずは自分で自分をもてなすため、自分と向き合うために「独服(どくふく)」(自分ひとりでお茶を点てていただくこと)の時間をとることをおすすめする、と述べていました。

正規のお茶のお稽古から脱落してしまったわたしですが、こんな自分でも、自分のためにお茶を点て、自分と向き合う時間をとることくらいは許されるだろうか、と思うのです。

しばしば夕暮れ時にだれもいない居間の一隅でひっそりと独服しながら心静まるひとときをもつと、そこにはたしかに、自分との、そして時には他者との交わりを感じて、時間が止まるような不思議な感覚が訪れ、生きて今あることを感じるような気がするのです。

これも、わたしにとっての茶の湯なのかもしれません。

 

茶―利休と今をつなぐ (新潮新書)

茶―利休と今をつなぐ (新潮新書)