【読書】『人は死ぬとき何を思うのか』を読みました
最近ずっと、「死」のことをぼんやり考えています。
朝起きてカーテンを開け窓の外を見やると、ふっと死の問題が頭をよぎります。
どんなにいいお天気であっても、心にかかった雲が晴れることはありません。
自分だけでいくら考えてみても、死のことなんてまるでわからなくて。
いつかは必ず訪れる死。生まれてきた誰もが避けられない死。
わたしに訪れるそれは…。
それが、いつなのか。
それが、どこでなのか。
それが、どのように訪れるのか。
それらの答えのひとかけらすらつかむことができず、想像もつかず、途方に暮れてしまうばかり。
本当はそんなことは考えたくもないのです。
ただ、死ぬのがこわいのです。
でも、どうしても向き合わねばならない問題で、向き合わざるを得ない問題でもあるのです。
たぶん、そうなのだと感じます。
図書館に行って、端末で「死」をキーワードに検索してみると、多くの本がリストアップされました。
いくつか目星をつけて書架に向かい、数冊の本をパラパラとめくってみた結果、一冊の本に目が留まりました。
『人は死ぬとき何を思うのか』。
渡辺和子さん(キリスト教カトリック修道女)、大津秀一さん(緩和医療医師)、石飛幸三さん(老人ホーム常勤医師)、青木新門さん(納棺師)、山折哲雄さん(宗教学者・評論家)による、死についての話です。
不安と混乱ですでに頭が疲れ切っていたわたしは、難しい本に取り組むことはできそうにありませんでしたが、この本は、それぞれの作家がやさしく語りかけてくれるような内容となっていました。
渡辺和子さんの章では、「生にも死にも意味を見出す」ことを。
大津秀一さんの章では、「死を受け入れ、今できることをなす」ことを。
石飛幸三さんの章では、「平穏な死」があることを。
青木新門さんの章では、「生と死が交差する瞬間に思いをいたす」ことを。
山折哲雄さんの章では、「生と死をみつめ直す」ことを。
それぞれに教えてもらったような気がします。
中でも心に響いたのは、渡辺和子さんの一節でした。
私は死を受け止めるから、愛する人に命を継ぎ足してください。そんな気持ちで死を受け止めれば、死や苦しみにも意味が生まれると思うのです。
渡辺和子「死を超えて信仰とともに生きるには?」p.39
苦しみのない死だけが「よき死」なのか。
死の理不尽さに苦しんだがゆえ、罪許され、清められ、死が意味を持つと考えることもできる、とシスターは言います。
そしてまた、次のようにも。
死という制限があるからこそ、限られた人生で自分は何をなすべきか、何を大切にして生きるかを考えられるのです。そうやって、人生のなかで大切なものを考えるという行為こそ、死を考えながら生きるということではないでしょうか。
渡辺和子「死を超えて信仰とともに生きるには?」p.21
日々、自分に与えられた荷を負い、その日の労苦を暮らし、心を尽くし、恵みを感謝し、自分が大切にするもの、そして死を考えながら、ていねいに生きること。
そんなシスターの姿勢や生き方が、死への恐れによって混乱していたわたしの心にポッと火を灯し、わたしがいつしか忘れていた大切なものを思い出させてくれたように思います。
本書全体を通して、死と向き合うこと、死を受け入れることの意味が語られています。
逃げるのではなく、拒否するのではなく、自然の摂理のなかで死を受け取ればよいのでしょうか。
わたしは、いつか訪れる死を穏やかに受け止めることができるでしょうか。
わたしの心はかなり張りつめていたようです。
この本を読みながら、何度もポロポロと涙をこぼしたのでした。
まだまだジタバタするかもしれません。
死を考えると、どう生きたらいいのかもわからなくなってしまいます。
時間がかかるかもしれません。
でも、ゆっくりと向き合っていくことにします。
生と死は隣り合わせであること、死があるからこそ生が輝くのだということを心に留めながら。