【読書】『死者との対話』を読みました
退院してから二ヶ月が経ち、車の運転が解禁になりました。
運転の肩慣らしに出かけた先は、いつもの図書館。
そこで、一冊の本を借りました。
いつしかツイッターのタイムラインに流れてきて、とても気になる存在になっている人、若松英輔さんの著書です。
若松さんは、日本の批評家、随筆家、時に詩人、そしてカトリックです。
なぜ『死者との対話』なんていう本を手に取ってしまったのだろう、と思いますが、わたしの中にはやはり依然として「死」が横たわっているのかもしれません。
この本は、神田神保町での講演「魂にふれる―死者がひらく、生者の生き方―」と、上智大学で開催されたキリスト教文化研究所主催の講演会「カトリシズムの再生」にて「近代日本におけるカトリック文学―吉満義彦から須賀敦子まで」と題して行われた講演の、書下ろし講演録となっています(ブックリスト付き)。
講演の中では、縦横無尽に様々な作家、著述家の文章を引いて、「死者は存在する」ということを一貫して語っています。
人間は死によって終わりではない。
死後も、死者は存在し、死者は在り、死者を感じ、死者と生者は協同する。
死者は、生者にとって親しい不可視な隣人で、共に生きているのだというのです。
若松さんは、十年前に奥様をご病気で亡くされています。
胸が引き裂かれるような悲しみの中で妻を見失い、しかし、その悲しみのゆえに、死者として存在し続ける妻の魂に再会して希望を見出したというのです。
無教会主義を説いた内村鑑三は妻を亡くし、無教会の伝道者である藤本正高は幼い娘を亡くし、同じく藤井武も妻を亡くし、矢内原忠雄も妻を亡くし、カトリック哲学者の吉満義彦も妻を亡くし、翻訳者の須賀敦子は夫を亡くしています。
それらの人々がことごとく、ありありと表現する、死者の存在。
またそれを、妻を亡くした若松さんが語り続けることに、聴者であり読者であるわたしたちの胸を熱くするような得心があり、意味があります。
今の世は、目に見えないものは信じない、科学で証明できないものは存在しない、という科学全盛の時代です。それはもう、科学教といってもよいほどの。
ですが、わたし(たち)は、科学では解決できない魂のうめきを発しています。
その魂は、死んでもなお生きる死者の存在を感じ、死を超越した永遠を本能的に知っているのではないでしょうか。
聖書(新共同訳)の一節を思い出します。
「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」」(ヨハネ11:25)
「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」」(ヨハネ20:29)
わたしたちは、死を乗り越えて生きることができる。
永遠に、共に生きる。
そう信じたいと思うのです。
死(死者)について、こういう本が読みたかった、そう思った一冊でした。