【読書】『涙のしずくに洗われて咲きいづるもの』を読みました
先日の『 死者との対話』に続いて読んだのは、同じく若松英輔さんの『涙のしずくに洗われて咲きいづるもの』です。
いくつかの雑誌等に連載されたもの、講演録などによって構成されたエッセイ集のような形になっています。
ここでも引き続き語られるのは、死者は生きている、ということです。
死者は存在し、わたしたち生者を支えている不可視なる隣人であると。
自分に「声」が聞こえないからといって、そこで何も語られていないなんてことはありません。わからない、見つけられないことと、それがないこととは、違います。仮に、皆さんが今、絶望していて希望が見いだせないことと、希望がないこととは違います。絶対に違います。皆さんが生きている意味を見いだせないことと、皆さんが生きている意味がないということは違います。
若松さんは、そう読者に語りかけ続けます。
臨死は死ではない。
生者は誰も死を知らない。
でも、私たちは感じている。死者となった人たちを。
死者を知らないけれど、死者を信じている。
死者を知らないことは、死者が存在しないこととは違う。
死者は存在するのだ。そこに、隣にいて、共に生きているのだ。
死は消滅ではない。
人は、死を通って、新たに死者として新生するのだ。
そう、何度も何度も語りかけてくれるのです。
本来は自明であることを、現代の人は忘れてしまっている。
だが、死者は生きている、人は死後も死者として存在し続けるのだという自明のことを、自明のこととして確信していいのだ、と背中を押してくれるのです。
私が恐れている死。
それは、すべてが消滅すると思っていた死。
でもそれは、死者に目を向けてこなかった私(たち)の視野の狭さのゆえなのかもしれない。
恐れることはないのだ。
死は終わりではない。
私たちもまた、いつかは死を通って、死者となって永遠に生きるのだ。
そう思ったら、死は恐れるべき暗闇ではない、そのトンネルの向こうに光があるのだ、と感ぜられたのでした。
ちょっと難しい本だったけれど、私を何度も励ましてくれた一冊でした。