あの時から、世界が変わってしまった
あれから、ずっと日記が途絶えていた。
書かなかったのではない、書けなかったのだ。
あれから、とはいつからなのか。
一昨年(2018年)の秋、入退院したときから。
もうあれから、丸一年と数か月が経った。
幸い、昨年は何事もなく過ぎた。
体調を崩して再び入院するようなこともなかった。
今のところ体調は落ち着いているし、持病のために苦しいとか痛いとかいったこともほとんどない。
ただ、不定愁訴のようなものはずっと続いていて、年齢的な要因もあるのかと思いながらも、よくよくその大もとをたどっていくと、やはり一昨年の入退院の出来事が心にかかっているらしかった。
そこで、個人的に大きな出来事があった。
不意に医師から切り出されたひとことに、大きな衝撃を受けた。
例えるなら、突然、大きな金属製のハンマーを頭の上から思いきり殴り下ろされて、頭も身体までもグシャグシャに潰されてしまったようなダメージ。
涙ひとつこぼれなかったけれど、心象風景の中の自分は、車に轢かれてしまった猫の死体のように、無残な姿で放置されていた。
あの時から、世界が変わってしまった。
* * *
先日、院内セカンドオピニオン的に、心臓外科の先生にお話をうかがってきた。
以前心臓の手術をしたときに、当時の執刀医から「10年か、長くても15年くらいしたら、また再手術になるかもしれない」と言われていた。
それから、16年が経過していた。
循環器内科の検診のたび、主治医には再手術の時機を何度も問うていたが、「まだいいんじゃないかなぁ。そんなに手術したいの?」との答えが繰り返されるばかりで、こう言ってはなんだが、どこか信用ならなかった。
業を煮やして、心臓外科にセカンドオピニオンを求めることになった。
心臓外科の先生は私のカルテと検査結果を見て、「そろそろ再手術の時機が来たかもしれませんね。この一年以内くらいには」と仰った。
あっけないほど、わたしが聞きたかったであろう答えを聞くことができた。
とはいえ、再び手術をするのは気が進まない。
おぼろげながら記憶に残る術後の苦しみをまた味わうかと思うと、尻込みしてしまう。
けれど、あの時グシャグシャにされてしまった心には、希望の光がスッと差し込んだようにも思えた。
希望によろこんだのも束の間、一度変わってしまった世界はもう元には戻らないことを、わたしはすぐに思い出した。
再手術をしてよくなったとしても、「あの時」以前のわたしには、もう戻れないのだ。
あの時の医師のひとことが、わたしの世界を変えてしまった。
人間はいつか死ぬ。
そして、わたしもいつか死ぬ。
不測の事態が起こらない限り、今すぐ死ぬようなことはないだろうとは思っている。
でも、死ぬことなんて微塵も意識せずにのどかな気持ちで過ごすことは、もはやできない。
心の奥底に、頭の片隅に、いつも「死」が佇んでいる。いつも。
この先10年生きたとしても、たとえ100年生きたとしても、そのあいだ中ずっと、たぶん、いつも。
あの時から、世界が変わってしまったんだ。
穏やかな世界は、もうどこにもない。
* * *
一年半ぶりに日記帳を開いた。
日記に書いたら、あの時の医師のひとことが現実になってしまいそうで、今まで怖くて書けなかった。
けれど、心臓外科の先生から少しだけ希望をもらって、ようやく日記を書く気持ちになった。
一日一ページ形式のほぼ日手帳を、フリーの日記帳として使っている。
まだ怖いから今までのことを一つ一つ詳しくは書かないけれど、それでも、今までの概要を一気に3ページ分書き連ねた。
そして最後に、
「今、私は、怒っている。」
と書き終えて、日記帳を閉じた。
あまりにも軽々しく切り出された重々しい医師のひとことに、わたしは恐怖の淵に突き落され、心は瀕死のダメージを負った。
あの時の医師はあまりにも、不用意で、軽薄だった。
そのことに、わたしは怒っていた。
怒っていたんだ。
この一年、検診のたびに主治医にあの時のショックを訴え続けていたが、先生は一顧だにせず軽くあしらわれてきた。
そして、あの時のひとことについて、説明することも、撤回することも、詫びることもなかった。
先生が詫びてくれない限り、あの時のひとことはわたしの中で未だ有効で、ゆえにずっと苦しめられ続けている。
あの時から世界が変わってしまったことを、先生は否定してくれない。
わたしは、怒っている。
受け入れられない。
立ち上がれない。
どうすればいいのかわからない。
求め、探し、門をたたき続けながら、途方に暮れている。