最期の日を考える~プロフェッショナル「訪問診療医・小澤竹俊」を観て
2017年3月6日放送、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀/訪問診療医・小澤竹俊」の回を今になって観た。
横浜市にある在宅医療クリニックの院長、小澤先生。
患者さんの心を聴き、耳を傾け、沈黙し、問いかけ、家族を励まし、共にあろうとする医療者の姿がそこにはあった。
ざっくりとした内容は番組リンクをどうぞ。
小澤竹俊(2017年3月6日放送)| これまでの放送 | NHK プロフェッショナル 仕事の流儀
こんなふうに心ある医師が働いてくださっていることに、希望を見出す。
実は、先日の入院で、わたしの中の何かが決定的に変わってしまった。
かわり映えのない同じような毎日が続いているはずなのに、目の前に見える景色が以前とはまるで違っている。
ひとことで言うなら、「死が、他人事ではなく、自分事になった」のだった。
もちろん、すぐにすぐ死んでしまうようなことは(不意のアクシデントでもない限り)もちろんないのだろうけれど、自分の毎日の延長線上に、必ず訪れる最期の日をまざまざと想像するようになってしまった。
死ぬのがこわい。
苦しんで死ぬのがこわい。
孤独のうちに死ぬのがこわい。
死ぬと分かっていて死ぬのがこわい。
死ぬと思っていないときに死んでしまうのもこわい。
人生が終了してしまうことが、こわい。
かつての一時期わたしを苦しめた死の恐怖問題には、若いときにある程度のケリをつけたつもりだったが、わたしはまったく分かっていなかった。
いざ死を暮らしの延長線上に思うようになると、そんなケリなんていかに無意味だったのかを思い知らされる。
全然、ケリなんてつけられていない。
わたしは何を信じてきたのか。
わたしは何から力を得ていたのか。
わたしの希望はどこにあったのか。
しっかり握りしめていなければならないものをいつの間にか手放して、何億光年も離ればなれになってしまったような気がする。
ポツンとひとり、自分だけが宙に浮かんで、道を見失ってしまった。
そんな気持ちの中で小澤先生の活動を目にすると、わたし自身、具体的な最期のために支えとなる人やものを確かめ、準備しなければならないと思う。
病の果てに人の役にも立てず何もできなくなったとき、ありのままのわたしであることを、わたし自身が肯定できるだろうか。
わたしもまた、誰かの助けが必要で、誰かの支えが必要なのだと思う。
少しずつ、少しずつ、考えてみよう。
患者目線で、そんなことを思った。
追伸
小澤先生はクリスチャンであるようだ。なるほど。