映画『淵に立つ』を観ました
2016年の映画、『淵に立つ』を観ました。
当時、地元のミニシアターで予告編をチラっと見ただけで本編までは見たいと思わなかったのですが、なんだか話題作のような扱いだったのでどこかで気になっていました。
そのタイトルを図書館で偶然発見。「これはあの時の映画だ」と思い出し、借りてきて観ることになりました。
公式サイトはこちら。
町工場を営む鈴岡利雄(古館寛治)と妻・章江(筒井真理子)、10歳の娘・蛍(篠川桃音)が暮らす家に、ある日、利雄の古い友人・八坂(浅野忠信)が現れ、工場で働きながら生活を共にするようになる。やがて前科者の八坂の過去を章江も知ることとなるが、蛍も八坂に懐き、静かな生活ににぎやかさが生じたようでもあった、が・・・というお話。
導入から、設定のフィクション感が見えてしまって、「いやいや、ないない、ありえない」とか思っていたのですが、そのうち徐々に物語世界に引き込まれ、最後には言葉にならない沈黙で観終わることになりました。
巷の評価は賛否両論のようですが、個人的にはかなりの衝撃を受けた文学的作品のように思えました。
明るい映画か、暗い映画か、といったら、圧倒的に後者になりますので、まだ観ていない方で明るい映画がお好きな方は、たぶん観ない方がよいだろうと思います。
なんでも観られる方は、観ておいて損はないとおすすめしておきます。
ただし、観る前に絶対にネタバレを知ってはいけません。
この映画は、一回性の作品です。初回の鑑賞がすべてです。不可逆です。
心してご覧ください。
第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞受賞作ほか、国内外で高い評価を受けています。
今後もこういった良質な作品がどんどん作られていってほしいと思います。
…と、ネタバレなしの無難なことを書いたのはここまでです。
以降、ちょっと具体シーンに触れてしまいますので、観てない方は閉じてください。
考察とか感想とか
「いやいやいや、メトロノームはもっと早くに止めるだろ」とツッコミを入れながらのオープニングだが、平凡ながらこれほどまでに印象的なオープニングもなかなかないような気がする。
妻が夫に向かっていつも敬語を使っている。
少なくとも10歳の娘がいて結婚してから10数年は経っているだろうに、まだ他人行儀な敬語使い。
夫の寡黙さも相まって、夫婦の距離感がすごく遠く感じる。
妻の育ちの良さを表現しているのか?とも思わせる。
妻がプロテスタント(キリスト教徒)であることも、品の良さに一役買っているのかもしれない。
男が現れた。
その男を、簡単に家に住まわせるのか? いやいやいや、ありえない。
その男が、自分の過去を妻に告白する。まるで告解(カトリックの神父・司祭に罪を懺悔する)のように。
妻がキリスト教徒であったから、男は罪を告白したのだろうか。わからない。どうしてカトリックではなくプロテスタントの設定なのかも、わからない。
だが、妻は神との関係の中で男の罪を理解したのだろうということは、なんとなくわかる。
男の罪を、妻は易々と受け入れてしまう。
普通なら、男の罪を知った時点で、家から男を追放する気持ちになるところだ。
なぜか妻には男に対する恐怖心がないようだった。ありえない。
さらには夫に向かって、「あの人こそ神様に救われる必要があるのよ」「見くびらないで」とまで言った。その妻の自信に満ちた言葉は、信仰という名の、無意識レベルでの傲慢そのものであったような気がする。
深紅のモミジアオイの前で、妻と男は密かに口づけし、夫を裏切る。
あろうことか、キリスト教徒の妻が背徳の罪に堕ちる。ありえない。けれど、わからないでもない。キリスト教徒だろうと、弱い人間に過ぎないのだ。
男は止まらない。加速する。
妻は、押し止める。
その果てに、痛烈な悔恨が訪れて。
夫も、妻も、自らの罪が罰せられたかのように、それぞれの絶望をそれぞれに抱え込むのだ。
パリッとした真っ白なワイシャツを着た男。
汚れのない真っ白な作業ツナギを着た男。
ツナギの下に真っ赤なTシャツを着ていた男。
まるで恐怖のアイコンのように、男の影が映画を支配していく。怖い。
8年後。
妻の容貌の変化が8年の時の流れを示していた。さらに、潔癖症となって。周囲が汚れているのではない。自分が汚れてしまうからでもない。自らの内にある罪の意識、自分はすでに汚(けが)れてしまった、自分は汚(けが)らわしい、という思いがそうさせているのではないか。
たぶん妻は、自分の犯した罪を自分で許せないでいる。
痛々しいまでに共感できる描写である。
夫の告白。夫は8年前の悔恨によって、夫婦が初めて本当の夫婦になったと感じていたようだ。妻はどうか? 妻は却って、あの時からより孤独になったのではないか。
同じ痛みを共有しながら、かつて家族として一致したことなどなかったのではないか。
得体の知れない夫に妻は吐き気を催し、その吐き気は観る者の喉をも詰まらせる。
得体が知れない者同士、一致し得ない者同士が、家族としてあることの不条理。
そんなある日、不意に男の息子だという青年が現れた。父の犯した罪を知らない純真な青年は、それとは知らず父の罪を背負わされ、この家族の闇に巻き込まれていく。家族はこの青年を道連れに、男の消息をたどる旅に出る。
男は、いなかった。
そして、妻と娘も姿を消した。
衝撃の結末。
目を見開いたまま、息をのむ。
夫の呼吸が鋭く長く響き、エンドロールが流れる。
どこに救いがあるというのか。
神はどこにいるというのか。
そこには、深い、深い、淵がのぞくばかりだった。
わたしたちは、その淵の際に立って、どこまで淵の奥底を覗きこまなければならないのだろうか。
人間は弱い。
希望がなければ生きてはいけない。
それぞれが孤独にあって、その希望をどこに見出だすのか、誰と共に歩むのかが問われているのではないか。
聖書の一節を思い出す。
死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
(旧約詩編23:4)新共同訳より
死の陰の谷、まさに淵に立ったとき、たぶん妻は、神を見失ってしまったのだ。
いやもしかしたら、神を棄てたのかもしれない。
わたしは妻にいたく共感し、同情を禁じ得ない。自分とて、淵に立って神を見失わない自信、神から離れない自信など、微塵も持ち合わせていないのだから。
祈っても届かない、絶望するまでに深い淵がこの世にはあることを想像して、おののくばかりだ。
それにしても、あの男は一体何者だったのだろう。
犯罪の全貌は謎のままだし、真に反省しているようにも見えない。
わたしには、復讐しに来た悪魔にしか思えない。
誤解してはいけないが、あの悔恨と痛みも、あの絶望も、決して神の罰などではない。
悪魔の仕業などでもない。
人生は時として残酷なものだ。
あの男は、きっかけにしか過ぎない。
自分の内なる原罪がえぐり出されるための。
問題は、罪と罰(のように思えるもの)が極まったあの絶望の中で、希望を見出だせるかどうかだ。
難しい。
光など見えない。
ただ、妻は息を吹き返したように見えた。
夫は諦めていない。
そこに、かすかな光を見出だすことはできないだろうか。
いや、それも困難だろう。
だが、たとえ光も見えず真っ暗な絶望の闇から抜け出せなかったとしても、それでも、彼らは、そしてわたしたちは、最期まで生きていかなければならないのだ。
つらい。本当につらい。
といったところで、考察と感想を終えます。
余談
エンディングに流れる主題歌(Lullaby/HARUHI)がとてもよかったです。
Youtubeでは規制がかかってPVが見られなくなっていました。残念。
DVDにはオーディオコメンタリー編があって、本編を深田監督、浅野忠信、古舘寛治、筒井真理子の解説付きで振り返ることができます。
印象的な色の使い方とか、演技についてとか、シーンの意味についてとか、いろんな裏話を知ることができるので面白かったです。
なるほどー、と思うことがいっぱいあって、映画とはこれほど緻密に作られるものなのだと感心しました。
深田監督と俳優陣の力量に敬服です。
いやほんと単純に、すごい映画を観てしまったという感じです。
『淵に立つ』"Harmonium"
2016年、日・仏合作
監督・脚本:深田晃司
キャスト:浅野忠信、古舘寛治、筒井真理子、太賀、真広佳奈、他
おすすめ:★★★★