ここにいるだけでいい、という場所
今日は、とある集まりの中の〇〇委員会の会議だった。
ボランティア活動のようなものである。
ボランティアといっても福祉的なものではなく単なる事務作業なのだが、誰かが担わなければならない性質のもので、なりゆきで召集されている。
セミリタイア人間にはちょうどいい社会参加だ。
今回は、その集まりで発行している会報のようなものの紙面づくりについてあれこれと打ち合わせ。
委員長がテキパキと仕切り、ごく少人数のみなさんでうまい具合に調整していく。
わたしはもっぱら、ふんふんとうなずいているだけだ。
会報で取り上げるメンバーのことはほぼ存じ上げないし、話の内容も半ばちんぷんかんぷんなのだけれど、時には「へー」とか「ほぅ」とか相槌を打ちながら、テキトーにその場にいる。
こんなテキトーさが許容されるのは、この集まりくらいのものだ。
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それでも最初は、自分は何も役に立てない、何もわからない、何もできない、と気に病み、たいして戦力になれないことをいつも申し訳なく思っていた。
実際、無力感が高じて意義が見出だせなくなり、「やめたい」と申し出たことがある。
すると、「参加してるだけでいいんですよ。できるとかできないとか、そんなものじゃないので。仕事じゃないんですから!」 と重鎮は明るくおどけた調子で言い、みなさんもニコニコと微笑みながらうなずいていた。
自然な形で、圧倒的に、受け入れられていると感じた言葉だった。
わたしを含めてみなさん人間なので、お腹の中では「めんどくせー」とか思うこともあるのだろうが、そんなことはもうどうでもよかった。
以来、わたしはここにいるだけでいいのだ、と思い直し、受け入れてくださるみなさんのあたたかい心を受け取るために、その活動に参加し続けることに決めた。
わたしには与えるものも与える能力もなく、ただ受け取ることしかできない。
けれど、しっかりと受け取るということがわたしの役目で、それこそがわたしにできるみなさんへの応答なのではないかと考えるようになった。
わたしがそこに身を置くということ。
それは、わたし自身が自分の無力をゆるすということでもあり、また無力感を捨ててテキトーになるということに他ならない。
わたしの他に、同じ理由で「やめたい」と申し出て本当にやめた意思の強い人もいるが、慰留?にあってなだめられた格好のわたしはひとえに単純な人間なのかもしれない。
まぁそんなわけで、無力でテキトーな私であってもこの会の末席に加わることをゆるされているのは、何はともあれありがたいことだ。
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さて、会報紙面づくりの続きだが。
来るイベントでの写真は誰が撮るか、という話になった。
委員長も、他のみなさんも、それぞれの持ち場があって離れられない。
みなさんの視線がわたしの方へ・・・。
重鎮「そのさん、どうですか?」
委員長「お願いできますか?」
わたし「・・・はぁ、なんとかやってみます…」
とのやり取りで、わたしはイベント当日のカメラ係を仰せつかった。
できるのだろうか。不安だ。
イベント当日に体調を万全に整えられるかどうかも不安だ。
思えば仕事をしている時は、不安であろうと不調であろうと、這ってでも職場に向かい、問答無用で事に当たるしかなかった。
そりゃ、しんどかったよね、と思う。
それに比べれば、なんてことはない。
ただのカメラ係だ。
写真は難しそうだけれど、幸いそれほどクオリティは求められていない。
力を抜いて黒子に徹しよう。
3~4時間のあいだ、ちょっとだけがんばろう。
そして、ちょっとだけでも物理的に働けることは、委員会の一員として、やっぱりうれしいのだ。
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他愛のない雑談を交わしながら、つるむことも馴れ合うこともない。
裏方としてさっと集まり、用が終わればさっと帰る。
都合が悪ければ休んでもいい。
時々外野から貴重なご意見をいただくこともあるが、咎められるようなことはない。
同じベースに身を置いて、細く長く、活動は続く。
わたしはわたしのままでいい。
ここにいてもいい。
ここにいるだけでいい。
そんなことを何気なく思わせてくれる◯◯委員会のボランティア活動に、地味に支えられている。