手帳と日記帳とブログとわたし
手帳と日記帳とブログとわたし・・・
適当なタイトルをつけてしまったが、わたしにとってのそれぞれの存在を考察してみる。
手帳
世の中に手帳愛好家がいるらしいことはうすうす気づいている。
こまごまと日常を綴ったり、アイディアを書き留めたり、旅をメモしたり、絵を書いたり、マステ(マスキングテープ)で飾ったり、マイルドライナー(蛍光じゃない色ペン)で彩ったり、そんな感じのもの。
「手帳活動」とでもいうべきもの。
「趣味=手帳」みたいなもの。
とても楽しそうである。
楽しそうだけれど、正直、わたしには向いていない。
「創作物」としての手帳に取り組むには、わたしの熱情が足りないようだ。
前回の記事にも書いたが、わたしにとっての手帳の意味はただひとつ、ライフログである。
例外的に、手のひらサイズのミニ手帳「PAGEM ペイジェムマンスリー リュミエール Petit 日曜」をバッグのポケットに入れて持ち歩いている。
手帳としてではなく、単なるメモ帳として機能している。
モレスキンが「クール」であるなら、ペイジェムは「かわいい」が身上なのである。
持っているだけで気分が上がる、そんな効果が手帳にはあるように思う。
話がそれた。
それ以上でも以下でもなく、毎日淡々と3分以内で記録するのみである。
日記帳
わたしと日記帳の付き合いは長い。
日記を書き始めたのは小学6年生の時から。
誰かから1冊の日記帳をプレゼントされたことがきっかけだったと思う。
その後しばらくは日記も途絶えがちだったが、ある年心臓を患うことになった時、現状を記録するため、また自分の気持ちを吐き出す場所として、再び日記をつけ始めた。
それは、今に至る日記習慣を決定的にした出来事だったかもしれない。
毎日書いているわけではない。
しかし、何かあると必ず日記に向かう自分がいる。
ノートから専用日記帳へと変遷しながら、20-30冊くらいにはなるだろうか。
時々、過去の日記を読み返してみることがある。
自分のことながら、子供から大人へ、徐々に成長の軌跡が見てとれる。
大人になってからも、随分と心の有り様が変化してきた。
そして、日記の中身は悲喜こもごもである。
あの頃はこんなことを考えていたのか、と感慨深くもある。
私小説のように興味深く読みふけってしまうこともあったが、もはや長い年月すぎて、年ごとに振り返るのもつらくなってきた。
「オレは振り返らない、前に進むだけだ」
と、以前Twitterで見た小学生のようにロックな姿勢でありたいものだが、まだまだ過去を振り返らずに進むことができない。
ひたすら自分のためだけに日記を記しながらも、いつか遠い日に、わたしの机を整理する誰かが見つけて読んでくれることをどこかで願っている。
大したことは書かれていないが、「へー、そうだったんだ」とでも思ってもらえさえすれば、うれしいような気がする。
最後のささやかな承認欲求かもしれない。
話がそれた。
そんな訳で、わたしのとっての日記帳は、現状を記録するもの、心の内を書き留めるもの、振り返るもの、気持ちを整理するもの、自分と向き合うもの、そして祈るもの、である。
これからも、そうして日記帳に向き合っていくのだろうと思う。
ブログ
この夏、はてなブログで再びブログを始めた。
以前エキサイトでブログを書いていた時も、またそれ以前にホームページをちまちま作っていた時も、結局は誰かとつながりたい、誰かにわたしを見つけてほしい、という動機が根底にあったような気がする。
手帳のような毎日のログ作りでもない。
日記のようにプライベートでもない。
書きたい時に書きたいことを書く、という点で日記とも似ているけれど、なぜブログなのかといったら、やはり、
- つながりたい
- 発信したい
- 存在したい
ということなのだろうと思う。
欲張り過ぎてマネタイズのことなど考えたりもしたが、2記事書いた時点で早くも消耗してしまった。
まだアフィリエイトなんて言葉もなかった?時代に、ホームページに適当にアドセンスを貼っておいたら、8年かかって8千円が振り込まれたことを思い出す。
そんなものだ。
よって、ブログの収益はアテにしないことにした。
話がそれた。
そんなところで、投稿も10記事を越えて、なんとなく自分の色もついてきたように思う。
関心は自分のブログだけではなくて、同じような色の人、同じようなテイストの人、それらが違っても何か自分の心に訴えてくる人、居心地のよい人、そんな人々とブログを通してつながっていけたらうれしいと思う。
また、このブログも誰かにとってそう感じてもらえる存在であれたら、いっそううれしいとも思う。
問題は、続けられるかどうかだけれど。(笑)
まとめ
手帳は生活を記録するもの。
日記帳は自分と向き合うもの。
ブログは人とつながるもの。
たぶんどれも、今の私には欠かせないもの。
そしてどれも、わたしの存在証明のようなもの、である。