かつて、恋をして、恋したことを忘れてしまった
そろそろ梅の花の季節。
山の中腹にふらっと車を走らせて。
梅の花が、ちら、ちら、とほころんでいた。
青い空。まだ少し冷たい風。
眼下に遠く街を望んで、よろこびとも、うれしさともつかぬ、早春の陽光のような明るさを帯びた気持ちが、さわやかに心を吹き抜ける。
かつて、恋をして、恋したことを忘れてしまった。
どんなふうに好きだったのか、どれほど好きだったのか、もう思い出せない。
たぶんすごく好きで、だからこそ、失った時にあれほど苦しかったはずなのに、それさえも風化して、すべてが初めからなかったような気がする。
今、心の中に一人の人がいる。
その人は、いつもやさしいまなざしで微笑み、低い声で、わたしの名を呼ぶ。
カフェのテーブルに斜向かいに座り、頬杖をついて、その人をまぶしく見上げながら、わたしも微笑む。
あの日、あの時、あの人はあそこにいて、わたしもそこにいた。
互いの道が交錯し、何かが、一瞬の内にスパークした。
それだけで、十分だった。
それがすべてだった。
世界が穏やかに凪いでいる。
今まで誰にも感じたことのない、名前のない恋情を、どう表現していいのかわからない。
ただ、わたしの存在が圧倒的に受け入れられている、そんな安心感に満たされている。
わたしの病も、弱さも、何もかも抱擁されて。
そして、ふとした瞬間、あの人の存在が、わたしの胸の真中から右腕を、しびれるように貫くのだ。
その感覚こそが、言葉にならないわたしの気持ちの確かな発露のような気がして。
コーヒーカップを傾けるその大きな手を見つめながら、好きなのだ、と思った。