春のつれづれ
桜が咲いた。春が来た。
うららかな日差しを受けて、桜並木の下を散歩する。
平日、誰もいない公園。
春の空気を大きく吸い込む。
ひとつ、ふたつ、くしゃみをする。
わたしは今、わたしの人生のうちのどの地点を歩いているのだろう。
見当もつかない。
止まっているような時間が、春風にそよいでいる。
* * *
春休み中の子供たちが遊びに来た。
小倉百人一首を広げる。
わたしは読み札を読む。
中学生はもう上の句を聞くだけで取れる。
小学生高学年も少しは上の句で取れる。
低学年は「ちはやぶる」が読まれるのをひたすら待って、「からくれなゐ」の札を凝視している。
中学生 vs 小学生では、中学生が圧勝してしまうので面白くない。
そこで、中学生にハンデを課した。
〈札は下の句から読むことにするが、上の句(上五)を言ってからでないと取れない〉というルール。
すると、中学生の勢いがにぶって、両者はいい勝負になる。
中学生は苦悶している。
小学生組は満足そうだ。
我ながら、面白いルールになったと思う。
休憩時間にパイナップルの缶詰を開け、みなで食べる。
おいしい、おいしい、という子供らの顔が無邪気にゆるんでいる。
* * *
三月のお茶のお稽古に行ってきた。
旧暦二月二十八日が命日である利休を偲んで、利休の掛け軸に供茶(くちゃ)。
掛け軸の手前の床には、一輪挿しに菜の花が飾られている。
床柱の花入れには、藪椿、利休梅、貝母(バイモ)の茶花。
四方棚、真の炉縁。
薄茶、濃茶、割り稽古で三時間。
静寂に包まれた八畳の和室で、お湯が注がれる音、茶筅が振られる音を聞き、茶碗の中の抹茶の色に心惹かれ、お菓子とともにお茶を味わう。
白い靴下で席入りの畳をすり足で進み、お茶を取りに立ったり座ったりする、そのたびに長めのスカートがひらりと揺れる。
頭がからっぽになり、身体と心にお茶が満ちていく。
マインドフルネスか。メディテーションか。沁みわたるような一服のお茶。
ただ、足の痺れだけは如何ともしがたく、さながら修行のようではある。
* * *
学生時代に必修だった授業を担当していた先生が亡くなった、と風のうわさに聞いた。
2-3年前に偶然お見かけしたことがあったが、随分お痩せになっていた。
まだまだお若かったが、病を治すことはできなかったらしい。
人生100年時代とはいえ、命の長さを推し測ることはできない。
命は、人間の思い通りにはならない。
人間は、わたしは、どこから来てどこへ行くのか。
自分なりの答えは持っているつもりだけれど、それでもなお、いかに生きるべきかを問われ、いかに生きられるのかを模索している。
毎日そんなむずかしいことを考えて暮らしているわけでは、ない。
でも、時々心によぎったりする。
次の日曜日は、イースター(復活節)だ。
春分が過ぎて、日がのびた。
太陽が高くなり、日差しが白く明るくなる。
うれしさ。希望。ちょっぴりの不安。
そんな季節。
* * *
夕暮れ、山の端に日が沈むと、光の残った世界には影がなくなる。
遠くに見える桜が、影のない世界に白く浮かんでいる。
春のつれづれ。
本日の、ただの日記。