初風炉と、一服のお茶の意味
五月末日。
待ちに待ったお茶のお稽古のはずなのに、前夜から考え事が頭をめぐって、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
考え事というのは、最近の、ぼんやりした不安のことである。
手を付けなければならないことはごまんとあるのに、何も手に付かない。
ただ無為な時間だけが過ぎてゆく。
このままでいいのだろうか。
そんなたぐいの不安なのだろうと思う。
もうひとつ頭を悩ませていたのは、六月のスケジュールが想定外に立て込んでしまったことだった。
のんびり暮らしているわたしには、週に一度ポツリと予定が入るくらいがちょうどよいのだが、来る六月はあちらに、こちらに、そちらにと、週に三度くらいの予定を四週にわたってこなさなければならず、追い立てられていた。
その多くに期限があったり、優先順位が高かったり、体調を整えなければ臨めないものだったりして、それなりのプレッシャーもかかっている。
毎日決まった時間に同じ職場に出勤するのとはまた違った、パズルを組み立てるような難しさを覚えていた。
セミリタイアとはいえ、さすがにのんびり過ごしすぎているせいかもしれない。
そんな訳で、眠れない夜を過ごした翌朝、なんとなく浮かない気分でお茶の稽古場へと向かった。
* * * * *
定刻より少し前に稽古場に着くと、先生が準備をなさっていた。
他の生徒さんはまだ来ていない。
まずは手を洗い、それからお水屋の仕事を教えていただく。
建水という入れ物を水で清め、茶巾、茶筅、黒文字を水盤に浸し、お茶碗を清め、茶杓を清め、茶巾をしぼり、茶碗に仕組む。
自分では何ひとつ手順もわからない。
ただ先生に言われるがまま、はい、と返答し、ぎこちなくも次々と手を動かす。
後から来た生徒さんが、お抹茶を茶器に移し入れ、お菓子を菓子器に盛り付けて準備する。
準備が整うとすぐに席入り。
畳一畳を六歩で進み、床の間拝見、お道具の拝見、そして着席。
皆で揃ってごあいさつ。
五月から、初風炉(はつぶろ)となった。
冬の間は畳に炉が切られお釜が据えられていたが、五月になると炉はふさがれ、畳の上に風炉という形式でお釜が据えられる。
夏仕様に切り替えである。
掛け軸は、「平常心是道(へいじょうしんこれどう)」。
床柱の花入れは、楓籠(かえでかご)に紫陽花、ホタルブクロ、シマアシが慎ましく飾られている。
* * * * *
初めに薄茶点前。
先輩のお点前をじっと観察しながら、客として薄茶をいただく。
ひと月ぶりのお稽古で、客作法すら忘却のかなた、満足にこなせないことがもどかしいが、ともかく目の前のお茶碗に向き合う。
南側の窓の外、露地の草むらでは、グワッ、グワッ、グワッ、と蛙がかまびすしく鳴いている。
二服目はお濃茶。
いつも薄茶点前をすることが多い先輩が、今日はお濃茶のお点前をお稽古。
若干とろみが少なく、抹茶の量が少なかったこと、練りが足りなかったこと、などが先生のご指摘を受けた反省点だった。
お茶を点てるだけではなく、自分で味わってみることもまたお稽古、と教えられる。
お稽古が終わる頃には、露地の一隅から、今度はカッコウの鳴き声が清々しく響いてきた。
カッコー、カッコー、と聞こえてくる鳴き声があまりにも律儀に規則正しくて、「一瞬、鳩時計かと思った」と口にした先輩に、みなで笑い合った。
そして先生は、「風炉になったことだし、次回のお稽古では、そのちゃんもお点前を始めてみましょう。ゆっくり進みましょうね」と告げ、わたしを見て微笑んだ。
お稽古を始めて半年。
季節は冬から春に移り変わり、そして今、初夏を迎えようとしている。
決して無為な時間が過ぎていくばかりではない。
少なくともここでは、ゆっくり、そして確かな時間が流れているのだ。
いよいよお点前を習えることに感慨を覚えながら、扇子を膝前に置いて、おしまいの礼をした。
* * * * *
二時間強のお稽古が終わり、帰宅してお昼を食べる。
心地よい疲れで、そのまま少しまどろんだ。
朝に感じていた浮かない気分はいつの間にかどこかに消え、時間も考え事も忘れて、ひたすらお稽古に没頭していたことに気づく。
またいつもの日常が始まる。
のんびりも、不安も戻ってくるだろう。
でも、ひとときのお茶の時間が、無心に生きることを教えてくれる。
平常心是道。
悟りなんて開けないけれど、ありのままに、無心にお茶をいただく、ただそれだけでよいのだ、という気がする。
一服のお茶を「おいしい」と味わえることの幸い。
お茶に出会ってよかった、と思うのだ。