わたしはあの時、逃げることを選んだ。
親戚の家に、両親とともにお盆参りに行ってきた。
ここ数年のうちに複数の縁者を亡くした家なので、若輩のわたしはなんとも言葉のかけようもなく、ただ親戚の人と両親との会話にうなずいているしかなかった。
今年に入って亡くなった者は、ほぼ過労死といえる状況であった。
話によれば、重責に残業、過重労働が長く続いていたという。
わたしの身近にも、現代の病巣、過労死は迫っていたのだった。
2年前の夏、ちょうど今頃の季節、わたしも会社でギリギリの毎日を送っていた。
あいまいな指示、いきなり知らされる締切、足りない時間、急な外出命令、終わらない仕事・・・。
リーダーへの不満と不信感、聞こえてくる誰彼の陰口、上司からの叱責、自分の能力不足に対する絶望・・・。
夜は眠れず、昼は猛烈な睡魔におそわれ、記憶が抜け落ちる・・・。
そして、圧倒的な体調不良・・・。
胸痛と不整脈を感じながら、鉛のような身体をひきずるように昇った薄暗い階段を今でも思い出す。
とある朝、起き上がれなくなっていた。
午後には大事な会議があって、出席しなければならなかった。
会社には、体調不良で遅刻するが午後の会議には出ます、と電話をした。
だが、少し休んでも体調は戻らず、そのまま3日間、寝込むことになった。
再び出社すると、また同じような日々が待っていた。
立ち止まることも、休むことも許されない空気が支配していた。
廊下を歩いたのちにデスクに着席すると、突然ハーハーと息があがって呼吸が乱れ、しばらく動けなくなった。そんなわたしに、誰も気づくことはなかった。
このままでは死ぬ。
直感的にそう感じた私は、その秋口に上司に辞意を伝え、翌春まで休職し、そのまま退職したのだった。
わたしはあの時、逃げることを選んだ。
今、おだやかな時間が流れている。
* * * * *
親戚のおじさんに、「仕事はどうしているのか?」と聞かれ、無職であることに気づく。
しかし、あの時逃げていなければ、今わたしがこうしてあるかどうかすらわからない。
逃げてよかったと思う。
そして、逃げられるだけの余力が残っていたなら・・・と、亡くなった故人の遺影を見て胸がつまる。
わたしを走らせ続けたものは、未来への希望であり、チャレンジ精神であった。
しかしまた、わたしの中の古い常識であり、社会に張り巡らされた見えない鎖のようなものだったのかもしれない。気づかぬうちに、わたしは幻影に囚われていた。
走り続けることを否定はしないけれど、走り続けることに疲れたら休めばよい。
鎖をのがれて、逃げ出せばよい。
逃げることは恥ではない。
会社にとって、わたしの替わりの人間はいくらでもいるが、わたしの人生にとって、わたしの替わりの人間はわたししかいない。
たとえ全世界を手に入れても、命を損ねたらなんの意味があるだろう。
本当に大切なものを見つめていきたい。