気がつけばセミリタイア?
毎日毎日、おなじような日々が続く。
いつからなのか、気がつけばセミリタイア?していたらしい。
退職したのは去る2016年3月。
仕事を辞めた途端、次から次からいろんなことがあった。
退職にともなう事務手続きで役所やハローワークに行ったり、
家族のひとりが突然の疾病で入院手術したり、
わたしの胃が絶不調で胃カメラのんだり、
やっと落ち着いて温泉旅行に行こうと計画したら家族もろとも風邪に倒れたり、
おばさんとランチしたり、
元同僚とランチしたり、
おいっこ、めいっこたちと遊んだり、
ボランティアでとある集まりの〇〇委員会の活動をしたり、
図書館に行ったり、
定期検診に行ったり、
ネットのオフ会に出かけたり、
セミナーや講演会に出かけたり、
久々に入院してプチ手術したり、
想定外の精密検査を受けたり、
とか、もろもろ、もろもろ・・・の1年半。
そして今に至る。
ざっくり振り返れば結構お気楽にも思えるが、何かの予定以外は最低限の家事をこなすくらいで、あとはひたすら休んでいた。
心ゆくまでゴロゴロして、うたたねしていた。
どうしてこんなに眠いのか、というくらい、眠りこけている日が多かった。
とにかく体調がすぐれず、疲れきっていたのだった。
「あぁ、ゆっくり休んだ、やっと疲れがとれた」
と、目が覚めたように思ったのは、退職から1年が経った春先だった。
じぶんを取り戻すまでに、それだけの時間が必要だった。
* * * * *
退職後は、とりあえず次の仕事は考えず、休むことに専念しようと決めていた。
多くの人から「仕事は?」と聞かれたが、「しばらくゆっくり休もうと思っています」と答えると、それ以上踏み込んでくる人はいなかった。
わたしが心臓に持病があることはみな知っていたので、プレッシャーをかけるような人も皆無だった。
かえって、久しぶりに再会した人などは、以前より元気そうな顔つきになったことを喜んでくれたりもした。
だが、(でも、これから先どうするの?)といった心配の色を人々の中に見出さないわけでもなかった。
じぶんの中にもそのような思いはあったが、ひとまず封印した。
毎日ゴロゴロと過ごし、ごはんを作って食べ、薬をのみ、体調を整え、眠る。
スケジュールは真っ白なわけでもなく、定期検診、外出予定、その他の細々とした雑用がポツポツと入り、うまってゆく。
そのリズムは、まだ働けなかったあの頃に戻ったかのようである。
似てはいるが、労働から解放されたこの日常は、あの頃よりははるかに自由である。
空虚を感じたことは、ない。
それよりも、テレビを消してうたたねする静寂がわたしをいやした。
鳥の鳴き声、雨の音、風の音、陽射しの色、世界の空気がわたしをいやした。
なにごともない1日が、かけがえのない時間に思えることが増えた。
いつかは移り変わってゆく景色と知りながら、少しずつ心の準備をしつつ、ただ毎日を生きることを学んでいる。
気がつけば、これがセミリタイアというものなんだろうか?
期せずして、わたしはすでに社会から引退しているのだろうか?
と思う。
意図してセミリタイアしたつもりはないが、結果的にそうなっていた。
無理のない、身の丈に合った居心地のよさを感じている。
* * * * *
完全リタイアではなく、あくまでセミリタイアと考えるのは、じぶんの内にまだいくばくかの労働の余地があるのを感じているからかもしれない。
社会への未練、のようなものだろうか。
というか、完全リタイアするにはまだ少しお金が足りない。(笑)
もうフルタイムに近い労働はできないと思う。
この先、少しだけ外で働くことがあるのか、それとも家でできることをするのか、まだはっきりとわからない。
すでにセミリタイア?生活を送りながら、毎日のんびりうたたねしながら、地に足のついたじぶんなりのセミリタイアのあり方を模索している。